17世紀、有田焼が世界へと広がる大きな契機となったのが、オランダ東インド会社(VOC)との貿易でした。中国磁器の輸出が途絶えた時代、VOCはその代替として日本・肥前有田の磁器に目をつけます。こうして始まった交易は、有田焼を「IMARI」の名でヨーロッパに知らしめ、やがて西洋陶磁文化の発展にも影響を与えることとなりました。
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東アジア貿易の混乱と新たな磁器需要
17世紀後半、中国・明王朝の滅亡と清王朝の成立によって国内は混乱を極め、長く続いた景徳鎮の磁器生産も大幅に減少しました。これにより、それまで中国磁器を主要商品としていたヨーロッパ貿易は一時的に停滞し、各国の商人たちはその代替品を求めるようになります。
当時、アジア貿易の主導権を握っていたのが、1602年にオランダで設立されたオランダ東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie, VOC)です。VOCはアジアとヨーロッパを結ぶ海上貿易を担う特許会社であり、国家の後ろ盾を得て独自の軍隊・造船・外交権までをもつ“国策企業”でした。
有田との出会い ― “日本磁器”の誕生
中国の内乱によって磁器の供給が途絶えた時代、新たな仕入れ先を探していたオランダ東インド会社(VOC)が目をつけたのが、日本・肥前有田でした。
1616年、有田の泉山で磁器の原料である陶石が発見されたことで、日本でも初めて磁器の生産が始まっていました。初期の有田磁器は中国や朝鮮の技術を取り入れながら独自の発展を遂げ、やがて高品質な白磁と美しい染付を生み出すまでになります。
VOCはこの有田焼をヨーロッパ向けの主要輸出品として採用し、焼き上がった製品は近隣の伊万里港から積み出されました。このため、ヨーロッパでは有田焼が「伊万里焼(IMARI)」の名で知られるようになりました。
世界を魅了した「伊万里」
VOCによって運ばれた日本磁器は、アムステルダムを経てフランス、ドイツ、イギリス、そして北欧の王侯貴族の食卓や宮殿を飾るようになりました。特にその繊細な染付と、当時のヨーロッパには存在しなかった完璧な白磁の輝きは“オリエンタルの神秘”として高く評価されました。
その影響はやがてヨーロッパ各地の窯業にも波及し、ドイツのマイセン窯やフランスのセーヴル窯などが誕生するきっかけとなります。つまり、有田焼は“東洋磁器の模範”として西洋陶磁文化の発展に大きな影響を与えることとなります。
ケープタウン沖に眠る“海を渡った有田焼”
1697年、オランダ東インド会社(VOC)の貿易船がケープタウン沖で沈没しました。その際、引き揚げられた積荷の中から、当時有田で焼かれた白磁の瓶や壺が数多く見つかっています。これにより、南アフリカ経由がVOCの主要な貿易ルートの一部だった可能性が高いと考えられています。
これらはヨーロッパへ向かう途中に輸送されていたもので、有田焼がすでに国際交易の一部として扱われていたことを物語っています。こうした発掘品は現在も南アフリカやオランダの博物館に保存され、“東と西を結んだ磁器の道”を示す歴史的な証拠として注目されています。
VOCと日本の関係 ― 出島の時代へ
17世紀後半、鎖国政策の中でもオランダは唯一日本との交易を許され、長崎の出島に商館を構えて貿易を続けました。磁器や漆器、銅、銀などを輸出する代わりに、西洋の科学技術や医学書が日本に伝わり、後に「蘭学」へとつながっていきます。
有田焼の世界進出は、単なる輸出の物語ではなく、東西の文化が交わり、互いに刺激を与えながら新たな美意識を生み出した、重要な転換点でした。




